過去のこと

なぜこれを書くかというと、私の成育歴はデジモンと無関係ではないからです。

幼稚園の頃:
きいちのぬり絵をして、それに出てくるような仕事に憧れた。バレリーナ、ピアニスト等。でも、親の不仲を見ていたせいか「お嫁さん」は嫌だった。友達はいなかった。色鉛筆を12色しか買ってもらえず、茄子の青黒さを黒と紫と青で苦労して描いた。36色の色鉛筆のある子がうらやましかった。色彩感覚が鋭く、傘や長靴を買ってもらう時、子供用は赤・青・黄しかなく、自分の欲しい色がなくて悲しかった。母に「ああ髭が気持ち悪い。でもかわいそうだから触ってあげなさい」と父とのスキンシップを不自然に勧められる。父を嫌じゃないのに、悪い事をしている気がした。

小学校:
校庭の池やプールで溺れている虫を助ける事、手折られた草花を持ち帰り水にさす事が日課で、「自分一人では世界を救いきれない」と悩んだ(これは心理学的には、母に虐待されていたため、自分が救済されないのを自分が救済者になる事で代償する「メサイヤ・コンプレックス」だ)。シュバイツァーやナイチンゲールの伝記を読んでいた。

「アルプスの少女ハイジの山小屋に住みたい」と卒業文集に書いた。3・4年生の担任教師にクラスぐるみのいじめを受けていた(暴力含む)が、母は気付いてくれないどころか、妹のいい担任に心酔するだけ。当然友だちができず、「どうやって友だち作ろうか」ではなく「なんで友だち作んないのよ」と叱られる。ある日、下校中に通り魔に殴られたが、母はいたわるのでなく「なんで近くの大人に言わないの」と私を叱った。成績は良かったが、その後も含めほめられたことはない。母は成績表を見ないし、見るとあそこがダメここがダメと批判する。

金がかかるからと七五三は年のお祝いなのに一人づつやってはくれず妹と一緒に。着物を選ぶのに時間がかかると怒られ、チラシを事前に見て決めた。

クリスマスプレゼントは、サンタさんにお願いしたものではなく、最近小さくなって買い換えないといけないサンダルなどの、実用品。親戚の集まりでは、必ずデパートで買った高い服ときつい革靴を、嫌がってもつけさせられる。いとこは平服なのに。そんなことのためにパートして貯金するが、子供と一緒に遊ぶ時間は作らない。遊ぶとしたら、近所の公園でなく遠い行楽地に電車に長時間乗って行かされる。いつも公園に一緒に行ってくれたりおやつを手作りしてくれたのは、貧乏で田舎育ちのお隣の幼なじみ子ののお母さん。母と対照的な彼女からもらった母性ははかり知れない。彼女がもしいなかったらと思うと恐ろしい。

成績優秀だが貧しくて大学に行けなかった母は、高卒で一流企業の事務に就職。当然周りはエリートサラリーマン。中流家庭を夢見たようで、結果はどこの馬の骨ともわからぬ職人だったが、妹が3人いるのでともかく自分は嫁がなきゃと父の強引なプロポ―ズに応じたらしい。もしここで、婚意をほのめかしていた複数の取り巻きを真剣に選んでいれば、私と妹のような不幸な命は生まれずに済んだのだ。母は、父と結婚しても中流志向を捨てずパートで稼いで図鑑やクラシックレコードや塾やバレエ観賞(夜遅く退屈で眠かった)などには出費を惜しまなかった。

就寝時に、来ていた服をたたむ理由は、それが礼儀だからだろう。だが母の理由は「もし火事や地震で外に出た時みっともないから」だった。普通、緊急時に服がちゃんとしてないなんて当たり前だろう。母は、子供がいうことを聞かないからと、他の事も「泥棒が来る」「やくざが来る」等「常に最悪の事態を想定させて脅す」というしつけをしたので、私と妹は人としてどうあるべきかを教わらず、常に不安に脅かされて育った。だから私は今も、電車に乗る時ホームでない方のドアが開くかもと不安でドアに寄り掛かれない。

中学校:
初潮を迎えるには多くを話したくないと思って、忙しい朝の登校時に言ったら、これ当てなさいとナプキンを1枚渡された。その極めて事務的な一言以外、一切のフォローは後日も含め、皆無だった。当時のナプキンは粗悪で、25分もかかる登校中の町中で、ずれまくるのをどうしたらいいか誰にも相談できなかった(性的虐待)。第二次性徴があるのに、私と妹は「お父さんが淋しがるから入ってあげなさい」と混浴を強要。自分が性的接触を夫としたくないから娘を身代りにする(性的虐待)。
自然に囲まれて暮らしたく、生物学も好きだったので、農業高校を志望し先生を唖然とさせる。だが模試で、農業高校の偏差値の低さを知り志望を断念。普通科を卒業して農学部を目指すよう担任に言われた。担任の先生が良い人で、実家の農家(実は福島で、不幸なことに現在立ち入り禁止区域だ)に私を泊まらせ体験させてくれた。

受験は、母に「どこも受からないんじゃないの?」と言われるが、都立高離れの年だったため、幸い都立の進学校に合格。しかし、制服も生徒手帳もない自由な校風で(学園闘争に、高校生が参加した数少ない高校であった)、マルクスを原著で読んだり、大学のゼミのような制度がある一方、温情での進級はさせず、試験が赤点なら留年させる(サボっても、試験さえよければ容認される)高校だ。近所にこの高校でサボって留年した少年がいたため、母は合格発表を見るなり「あの子みたいに留年する」と心配した。あの~入学してないし成績表さえまだ出てないんですけど。つまりは、常に最悪の結果を招く子だとしか母は私を見なかった。

高校生:
高1→教科書に母の字で勝手に名前を書かれる。幼稚園児じゃあるまいし。たまたま受かってしまったので、成績は中くらい。特に数学が壊滅的で、呼び出しを食らう。

高2→進学校にもかかわらず受験に不利な<社会は、日本史・世界史でなく地理・倫理社会><理科は物理・化学でなく生物・地学>選択という、変人の集まりであるクラスへ進級。美術志望者も多く、後に一人は天下の東京芸大彫刻科に現役合格。もう一人は、学芸大を経て美術教師に。一人はカメラマン。一人は美大を経て新聞社へ(彼が、腹痛で早退した時送ってくれた人。後に交際したが、肩を抱かれたのが恥ずかしくて別れてしまうほどうぶだった。)。一人は親の反対を押し切りアニメ専門学校からアニメーターへ。私は日本画家か絵本作家になりたかったが、クラスの面々に圧倒され、美大に行くのには美系の予備校がある事さえ知らず、あきらめた。

色彩に敏感で、カラーコーディネーターも考えたが、ビシッとスーツ着てメイクして企業を営業して回るなんて自分は無理、と断念。

高3→進路テストでは、教育・医療が向いているとの結果。私の父は中卒、母は高卒、親戚に大卒者がおらず、大学とは何なのか知らなかったし、共通一次(センター試験の旧称です、世代ばれる;)の日程を知ったのは、それが終わった後だった。小此木啓吾氏の著書に感動し、「この先生の所で学びたい」と思う。しかし「慶応大医学部教授」とあり、医学部でなくとも他大の心理学部なら何とかなったかもしれないのに、心理学部という存在を知らなくて、精神医学への道を断念。

因みに妹は、母に「女が四大行くな」(自分は成績優秀なのに貧乏で大学行けなかったのに)と言われバイトして心理学部へ。現在、臨床心理士のオフィスを構え活躍中。母の虐待の同士だ。1歳1か月しか違わない年子。おそらく、第1子(私)の誕生で禁欲していた父がすぐに第2子(妹)を妊娠させたのだろう。母体の負担を考えない軽率な行為だ。それで私は甘え足りない心の傷があったと思う。しかも、母の乳腺炎による早期の断乳もあった。

「世界で一番苦しんでいる人を助けたい」との理由で国連・ユニセフの職員を志望したが、これには相当の英語力および英語以外の一つ以上の言語も堪能でないとなれないので断念。ユニセフの会員としてボランティアするにとどまった。何か専門的な技術があれば、国際援助活動に参加できると知り、生物学や医療に関心があったので看護短大を志望。クラス投票で「純粋な人」第1位になる。

親を嫌っていたから、3年生とはいえ短大だから学費は少な目だし、女として自立できるのも看護を選んだ一因だった。母みたいな人生はいや、男に左右されず自分の意志で自分の道を切り開く。母は「看護婦なんて無理。事務がせいぜい」と。いったい私の何を知ってるっていうの。ただ、看護短大は看護界では全国で一握りのエリートでも、進学校においては偏差値50台の底辺校だった。現在は医療が高度化し、少子化もあり4大卒の看護師も当たり前。でも、准看制度はいまだに無くならない、人手不足だから。

短大:
女子校は苦手だが、アットホームないい短大(3年制)。せっかく全国から合格して集まったエリートなのに、私語・欠席が多いのにはびっくり。私は国家試験の模試でひどい点をたたき出し、教授を焦らせる(正看の合格率は准看と違い90数%)。精神科看護の専門誌に、論文が載る快挙。卒論に当たる「総合看護学実習」では精神科を選択。3年の夏休み、国際援助に携わるための準備として、タイの寒村へのホームステイを行うが、トイレ(ない時もある)にイモリや大蜘蛛がいたり(嫌いではないのだが、自分が無防備な時にいられるとこわい)、ダニに全身を食われ、外国での援助活動は断念。卒後の5月に、国試合格の通知。

成人式:
着物にお金を使うなら、それより一人旅をさせてと希望するが、無視され親戚一同を呼ばれ、お人形のように座らされた。

就職:
系列の病院の脳外科に配属。精神科にしなかったのは、総合実習の時に内科系の持病のある患者の医療事故が起き「精神科看護婦でも、他科もわかる人になりたい」と、他科を回ってから精神科に落ち着くと計画したため。初めての一人暮らしは、親の呪縛から逃れ天国だった。が、24時間三交代で夜勤も業務の密度は濃く、燃え尽き症候群になり、3年と少しで自殺未遂し退職。ここでも母は、「ちゃんとお歳暮お中元してるの?」誰もいねーよそんな人。また、私に秘密で上司に「挨拶」に行く。私のアパートに無断で入り、冷蔵庫にケーキ30個を押し込む。そんなのスタッフルームの小さい冷蔵庫に入んねえよ。母の過干渉と無関心は、成人しても続く。

9か月休養:
職場近くのアパートを引き払い実家へ。運転免許を取る。人生・仕事を見直したく、心理学の四大を志望。母は「哲学だ宗教だ、気が狂ったんじゃないの」とヒステリックに騒ぐ。父が「本人が行きたいんだから行かせてやれ」と一喝。父は母性愛に富んだ人で、私の存在そのものを愛してくれる。だから、母の虐待があっても私は自殺せず(未遂は数回)生き延びる事ができた。もちろん学費は自腹。2校に合格、埼玉の某私立大へ編入学。

大学:
3年次に編入学。共学だし自由だし夢のように充実し楽しかった。成績はほぼオールA。部活(カウンセリング研究会)、カラオケ、ユニセフサークルの立ち上げ、文化祭、バイト(なんと、ねずみーランドのナースです)、好きな時間に無料で使える大学のプール(スポーツは嫌いだけど、体が柔らかく、水泳とマット運動は得意だった)、図書館、エンカウンターグループへの参加、とにかく忙しかった。ただ、短大の単位で互換性のあるのはほとんどなく、一般教養と小児保健だけ。なので、3年でこなすべき単位を2年間に詰め込み、月~土まで必修科目が満杯、友人に録音とノートをお願いして別の講義に出る事もあった。ドイツ語(仏語も選べたけど、やはり医学はドイツ語なので)なんか、ⅠとⅡを同時進行を強行。でも、語学は好きだし両方Aだった。

息子の父親とは、同じゼミで出会った。お坊ちゃん育ちの二枚目で、二枚目なのを隠すためわざとひょうきんに振舞う人。

大4の冬に妊娠。2か月から臨月までひどいつわり。初めは内科に行った。周期からして、妊娠のはずはないと思ったかったから。なのに、その日に限って1日だけ周期がずれたのだ。内科で胃薬をもらい、治らずまた行くと「膠原病の疑いだから膠原病の先生の日に来て下さい」と言われ診察してもらえず、頭にきた。駅から遠い不便な病院に、寝込みを押してやっとの思いで来てるのに、その一言は何?

で、また受診して(膠原病は自己免疫疾患なので、妊娠=体内の異物の時も膠原病のデータが悪くなることがある)、産科で3か月との診断。彼にはふられていたからショックだったけど、映像で3頭身で頭と体がはっきりわかるので、もう人間だなと思って産もうと思った。よく[クリスチャン(カトリック)なの?」と聞かれたが、そうではない。宗教的戒律を守るためでなく、自分の意志だ。医師の「今日、出産の入院日予約をして下さい。❍月❍日ね。でないともう空きがない」とは驚いた。そんな、工場のベルトコンベアみたいに我が子を産んでたまるかと、予約はしなかった。帰りにはすでに決心は固まり、市役所へ母子手帳をもらいに寄った。埼玉某市の医療はひどかった。大きな病院がここしかないから、みな来ざるを得ないのだ。

卒論(箱庭療法による自己分析。)の追い込みなのに、つわりで寝込んで書けなくて、評価は異例のB。スケジュールが満杯で4年の2月に組んでいた臨床心理実習も、つわりでキャンセル。そのため認定心理士(実験心理学と臨床心理学の基礎を全て学びましたという国でなく学会による資格で、臨床心理士の基礎と言われる)の申請ができなかった。他の学生が、日記みたいな「臨床心理実習記録」で単位が取れるのに、論文が専門誌に載った私はだめなんですか?と教授に詰め寄ったが、心理学と看護学は違うからだめなんだと言う。院への進学はひとまずあきらめたし、看護師としてホスピスに内定していたが断らねばならず、卒業した。

神奈川へ:
母の干渉を避けるため、また神奈川在住の妹が同居を申し出てくれたため、神奈川へ転居。土地柄で左派の活動的な女性が多く、シングルでの子育ては助かった。

「いいお産」とはどういうお産かは、人による。ペンションみたいな病院でフランス料理を食べるのがいいお産な人もいるし、仕事の都合で決まった期間に産まないと困る人もいる。私にとっては「産まされるのでなく自分で産む、動物として自然なお産で、夫が立ち会う」だった。さすがに「夫」は無理だったが、妹が一緒にプールに入ってくれ、水中出産で有名な助産院で出産。自然に任せ、プール(へその緒がつながっているので、子の酸素は大丈夫)で自由な体位で、産まれたらすぐ抱いて、しんと見つめ合い(叩いて泣かせたりはしない)、乳房を吸わせ、へその緒は私が切った。私に似ているが眉は彼そっくり。この出産と、母乳の出が良く、人工乳は全く使わず断乳せず自然に飲まなくなるまでたっぷり授乳した事は、虐待母の私が母親らしいことをしてやれた唯一の経験だ。自然に離れていく生き物なのになんで唐辛子を塗ったりして無理に断乳するのか(仕事の都合で仕方ない人はいるとして)、私には理解できない。後に妹も、この助産院で2児を産んだ。

私の父は、妾腹に産まれた父親(私の祖父)に長男として大切に育てられた人で、建設業の自営で男児を望んだがかなわず、私が嫁にいかず男児をもうけたのを大変喜んだ。父と母方祖父が息子の父親代わりをしてくれたが、今はもう亡い。母方祖父は婿、祖母は養女なのでお墓を継ぐ者がない。祖父と同居さえしてたのに無縁仏にするなんて、私に力があればと残念だが、母も私も父方の法事だけで精一杯なのが実情だ。

世は「未婚の母」と言うが、私はそれを拒否する。未婚とは未だ婚せず、つまり「女は結婚して当然」という固定観念があり、これは結婚していない女性への差別である。よって私は、結婚していない事実だけを述べる「非婚の母」と言いたい。別に結婚を拒否しているわけではないが、未婚という言葉は使いたくないので。「無婚」という中立的な表現が、個人的にはよりしっくりくる。

息子の命名:
夏生まれなので、夏らしい名。日本人らしい名。男の子らしい名。漢字を読むと読みやすく、音で聴くと漢字がわかる名。私と彼の名から少しずつ採った名。個性的で印象的だが、奇をてらわない名。→ 完璧です。苗字の最後と名の最初で母音が重なり、発音しにくいことを除けば。

息子の持病:
息子は複数の持病持ちだった。まず、てんかん。発熱のたび大発作を起こし、救急車。ひきつけがあると1年間予防接種ができない。だから息子は、予防接種を免疫力の高まる指定の時期に受けたことが一度もない。破傷風は怖いし、おたふくは成人してかかると重症化し精巣障害を起こすし、心配なので自費でも受けようか、かかりつけの小児科に相談すると、接種しましょうということになった。。4歳で風疹脳炎になったのもそのせいで、一時は生死の境をさまよった。脳波検査のため定期通院するよう言われたが、予約の取りづらい大きな病院に通うのは、シングルマザーとして難しかったので行かなくなったのも、風疹から守ってやれなかった一因だ。

私に母との同居を決意させたのは、脳炎による入院だ。この子を育てる以上、母との共存は避けられないと覚悟した。息子は、私の虐待を赦しただけでなく、母との関係も救ってくれた。「救済者」は、実は息子だったのである。てんかんは、抗けいれん剤の休薬でも脳波異常がなく、18歳で治癒した。15歳を過ぎても小児科医に「成人の神経内科に移らなくていいよ」と言われ、ブレザー姿の巨漢が小児科のロビーに座る姿は、少し可笑しかった。でも、あの病院に行くと昔を思い泣くことが今もある。

自営業(亡くなって廃業したが、当時はまだやっていた)と墓の後継ぎができた父にとっても、豪農に産まれたが長男でないというだけで幼くして丁稚に出された挙句、生母に死なれた養女に婿に出されたのに男児に恵まれなくいたたまれず精神を患った祖父にとっても、息子は救済者だった。曾祖父の看取りまで、彼はしてくれた。街の占い師にことごとく言われた、ご先祖や家族と縁の深い子ですと。それはまさに当たりだった。不思議な偶然だが、彼の名は、ヤマト・タケルじゃないが遠い祖先・日本神話からとっている。神様が下さった天使だ。

父親の遺伝のアトピー。卵・牛乳・大豆・米・小麦。大豆は、私がつわりで豆腐と豆乳は受け付けるので食べ過ぎたからだ。頭皮も顔も血だらけで、会う人ごとに「可愛・・かわいそう」と言われ傷ついた。食物アレルギー専門医へ東京まで通院し、厳格な5大除去食・雑穀や青菜や白身魚を食べ、理解のない保育士さんに「おかゆと青菜ばかり持たせないで」と言われた。でも、菜の種類は毎回変え、おかゆも稗・粟・きび・アマランサスと変え、味付けも味噌・醤油・塩・甘辛・てんさい糖と、変えていたのに。母乳だから、私も治療食を食べないといけない。職場で「これくらい大丈夫でしょ」といろいろ不純物を勧められ、少量でも反応するから鍋釜さえ妹と別扱いなのに、私が青魚を食べ授乳したら息子に発疹が出た事も知っているのに、やめてもらえず辛かった。院内保育室から市の保育所へ移る頃には治って助かった。

幼児なのに高脂血症があるのは、てんかんで通院採血しなければわからなかった。普通の食事をしていたし、痩せっぽちなので、原因は不明。そのうち肥満し、脂肪肝と血圧高めになり、現在も小児内分泌科専門の医師にかかっている。

持病だけでなく、風邪もよく引いた。アトピーなので長引くし、高熱なら大発作。多少の鼻水なら服薬させて預かってくれるが、熱だと保育所へ預けられないので本当に困った。小児がんの検診にも引っかかり、遠い大学病院へ何度も通った。

東京へ:
同居していた妹が結婚のため出ていき家賃の支払いが厳しくなった事、アイデンティティのない土地(小学校の運動会に村中弁当広げて大騒ぎするような田舎)で息子を小学校に上げるのは抵抗があった事から、就学前に実家の近くへ転居した。

同居を避けたかったが脳炎の事があり、また実家が雨漏りで建て替えねばならない事、実家の隣に住む祖父の世話を母がしていた事、わたしの引っ越し先で隣家とトラブル(隣家が野良猫に餌付けし、うちの庭に糞をするので苦情を言うと、「動物愛護の精神を指導しろ」と保健所に訴えるという異常者)があり、三世帯のバリアフリー住宅を建て同居することになった。もちろん台所と風呂は別。

息子の不登校:
小5の3学期から小6の夏休みまで、原因不明の微熱で学校を休んだ。もちろん第一因は私の虐待だろうが、てんかんもあるし脳炎も患ったし、親子なのに何とも言えない気持ちの通じない感じがなぜなんだろうと私は苦しく、何か性格的に偏りや器質的な問題はあるのか?確かに、てんかん気質のような感じはある、発言がくどいし、独特のこだわりがある(例えば、トイレのスリッパを置くのを拒否して部屋のスリッパを使う、本を立てて置かないで平積みにするなど物の位置に決まり事がある、扉や窓の開け閉めに細かくこだわる等)。区の教育センターやかかりつけの小児科に通い詰めたが異常はないと言われる。異常です、あなたの虐待が原因ですと言われたらどんなに楽だったか、この通じない違和感を持ち続けてひとり育児しなければならないのか。後日、息子は「体温計を操作した。毎日毎日、肉まん食って学校行く意味がわからなかった」と告白する。どちらにしろ、原因は私だ。

息子の中学:
自分の力が母に勝るようになった彼は、ケンカになると自室へ引っ込むようになる。高校受験は、学費の問題(私は体力がないので常勤ができない)で公立に行ってほしかったが、いかんせん都立工業高しか合格圏内にない。しかし幸い、結構いい私立校にパソコン部副部長・部長という経歴(それまで、そんな人望など知らなかったダメ母)を買われ推薦をもらっていたので、安くて徒歩3分で親友たちも行く都立か、特進クラスでは一流大合格者も出る私立のITクラスか、本人悩んだ末私立へ進学。

息子の高校:
詳しい様子は知らない。大学受験の志望がいい私立で、入塾試験のあるようなレベルの進学塾には行けず近所の学習塾に行き始める。高校と塾の学費がかさんで私は常勤になるが、体を壊し非常勤に戻る。一人で育てたかったけど、もうどうにもならなくて、十数年ぶりに息子の父親に連絡し、養育費を出してもらうことにする。

息子の大学:
第一志望大はかなわず、でも片道2時間半の長距離をほとんど休まず通い、それなりの卒論は書けた様子。卒業後私の入院もありニートを2年して3年目にアルバイトにようやく就いた。成人しても飲酒はしない。アルコール依存患者の子は、やはり依存症になるか酒嫌いになるかどちらかであることが知られている。息子は後者、私は前者だ。生母と死に別れた不幸な祖母から母へ、母から私へ、私から息子への虐待の連鎖を、息子は断ち切った。強く優しい子だ。

入院:
食欲のない生活が1年ほど続き、2014年7月、連合性脊髄小脳変性症(ビタミンB不足による筋・関節・神経の病気)で入院。最初は意識がなく寝たきりだった。12月に退院したが、後遺症に悩まされている。現在もリハビリか通院中だが、身体障害に介護保険にも該当せずとの判定なので、保健師の勧めでうつ病の既往から精神障害の申請をした。現在精神障害2級。そのため看護師を失職し、就労継続支援A型事業所に通所しいくばくかの給与を得つつ障害年金を受けている。

息子の父親には迷惑をかけてしまったが、私にとっては、好きな人の子を産んで育てる、女としてて幸せな半生だったと思っている。

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